英俳優ベン・ウィショー(Ben Whishaw)さんに関するブログ

2017年06月10日

[ 「メリー・ポピンズ・リターンズ」に出演


 2018年公開予定? のディズニー映画『メリー・ポピンズ・リターンズ(原題)』にマイケル・バンクス役で出演している。

http://www.imdb.com/title/tt5028340/
imdbの作品情報

http://www.playbill.com/article/everything-we-know-about-mary-poppins-returns
アメリカの演劇情報サイトPlaybillによるまとめ、『メリー・ポピンズ・リターンズ』についてこれまでにわかっていること。2017年3/25付の記事で、その後もちょっと動きはあったけど……。

 1964年の映画『メリー・ポピンズ』の続編(「リメイク」ではない)。監督はロブ・マーシャル、プロデューサーはジョン・デルーカ、マーク・プラット。脚本はデイヴィッド・マッギーがP・L・トラヴァースの原作をもとに手がける。

 主演のメリー・ポピンズ役はエミリー・ブラント。共演にリン=マニュエル・ミランダ、エミリー・モーティマー、メリル・ストリープ、アンジェラ・ランズベリー、ジュリー・ウォルターズなど。

 マーク・シャイマンとスコット・ウィットマンが新曲を書き下ろす。ミュージカル映画である。
 
「2018年クリスマス公開」予定。imdbによると日米は同時公開で12/25になっているけれど、信じていいのか……? 撮影は2017年の2月から行われたらしい。ロンドンの街頭で撮影中のようすがタブロイドで報じられたりもしている。

 前作の25年後、1930年代「大恐慌時代」のロンドン。成長したマイケル・バンクスは、三人の子どもとともにさくら通り17番地の家に住んでいる。家族を亡くした彼らのもとにメリー・ポピンズがふたたび現れる。彼女の魔法と友だちの点灯夫ジャックの助けで、一家は失われた人生の喜びを取り戻していく。(公式のあらすじ概要)



http://ew.com/movies/mary-poppins-returns-exclusive-first-look-photos/light-the-way
「エンターテインメント・ウィークリー」誌2017年6月16日号で、プロダクション写真が独占公開された。
 




 点灯夫ジャック役に『ハミルトン』『モアナ』のリン=マニュエル・ミランダ。こちらもとても楽しみ! かつて、前作の煙突掃除バートの見習いだったという設定。そのバート役ディック・ヴァン・ダイクもカメオ出演しているらしい。



 マイケルとジャックが深くかかわる場面があるかどうかは現時点で不明ながら、撮影現場でミランダ家の愛犬トビーさんとはだいぶ仲良くなったらしいようすがリンマニュエルさんツイッターに。可愛い……かわいい……。




 EWの記事のほうでは、バンクス家の状況についてかなり詳しいところが書いてある。ジェーン役エミリー・モーティマーとベン・ウィショーも自分のキャラクターについてコメントしている。(以下、話のねたばれもたくさん)
 
 マイケルは父の背中を追うように、銀行(頭取役はコリン・ファース)で働いている。ジェーンはひとりで暮らしており、「イングランドで不当な低賃金で働く人びとの権利を守る」社会活動に熱中している(参政権運動家だった母の影響だろう)。
 
 銀行家だが心は芸術家のマイケル。妻を若くして突然亡くしてしまう。三人の子どもをひとりで育てることになったために憔悴し、大人としての大切な責任を果たしそこねて家を失うかもしれない事態に。
 
 ベン・ウィショーのコメントより。「自分ひとりで三人の子の面倒をみるのに必死で、イギリス人らしく厳格でいようとしている。ストレスも不安も表に出さないように。でも、何もかも悪いほうへ転がってしまう」また、子役の演技やキャラクターを絶賛し、「これは、子どもたちがいかに小さなおとなになってマイケルの面倒を見てきたかについての映画じゃないかと思う。そのことに彼は気づいてないのだけど」
 
 私見、エミリーのコメントや記事本文と合わせると、なんだかマイケルが主人公のようにも読め……いやいや、まだまだ本編の具体的な内容はわからない。これからこれから。いずれにせよ、「かつて子どもとして前作に親しんで育ち、おとなになった」観客が楽しめるように考えて作っている気配は伝わる。

 劇場で見るのを楽しみに、あまり周辺情報を知らないようにしておこうかな……と思いながら、ついつい誘惑に負けて探しに行って読んでしまう。だって公開日が遠すぎるし楽しみすぎる。


 おまけ。ジェームズ・コーデンのテレビ番組企画「横断歩道・ザ・ミュージカル」atロンドン、メリー・ポピンズwithベン・キングズリー編。だいすき。
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2016年05月19日

『ロンドン・スパイ』感想




 https://www.netflix.com/jp/title/80048568

 ストリーミングサービスNetFlixにて、日本語字幕・吹き替えがついて5月9日から配信されている。先日見終えた。
 
 個人的に関心のあることに引き寄せて考えてしまうけれど、これは「社会の構造として残り続ける、目に見えづらい差別・偏見」と「個人としての愛と感情」との対立の物語なのだな……と思った。「スパイストーリー」としては確かに残念ながら説得力に欠けるシナリオで、「奴ら」の正体や陰謀の意図など、謎解きの部分に力点を置いて見ると肩透かしを食うのかもしれない。ただ、ひょっとしたらそれは作り手にとっては書いてるうちにどうでもよくなってたのかもしれない。

 孤独のなかでお互いを見つけた二人に、ショッキングな死別、汚名、病、社会生活からの疎外、そしてまた親しい者の死、と理不尽な苦難がこれでもかというほどにふりかかる。同性愛者不遇の世代を生きてきたスコッティが経験した苦しみを、表面上はもはや差別なんか存在しないことになっている現代のロンドンに生きる若いダニーが無理やりなぞらされていくかのような展開。謎の中心をなすのはいまの世界が課す「顔のない差別と偏見」そのもの。個人が個人に対して抱くのとは違う「構造の敵意」に対抗しうる力は、愛だけ。誰がなんと思おうと僕らの愛は存在した、という「個人的な感情」だけ。

 ダニーに直接危害を加える「謎の組織の尖兵」が、だいたい仮面のように無表情な「女」ばかりのように見えるところがちょっと気になった。これはクリエイターよりプロデュースや演出サイドの意図なのかな。刑事、記者、ナース、女医、白衣の研究者。というか、逆に全体的にゲイ以外の男性は影が薄い? アレックスの「二人の父」は、威嚇的だがほとんど台詞がなく、ダニーの父に至っては喉にパイプが入っていてしゃべれない。無言の不機嫌でいられる特権を持った男が牛耳る世界で、女が派遣され無防備な青年を傷つける。そんな図式を見るようでつらい。息子に愛情を抱けないことを責められる母親たち、ロボットのように使われる「手先」たちの内心を思うとつらい。ただ、個人と個人が対話することで、わずかな転覆の可能性が生まれていく。起こったことは消せないし、作中でも言われているとおり負け戦だけれど。取調べをした刑事の最後のシーンは、あきらめと歯がゆさの奥行きのようなものが感じられてよかった。ハリー・ウォルターとシャーロット・ランプリングの演技も当然よかった。種明かしの過去話はちょっと駆け足すぎてあんまりだったけど。このあたりも背景を描き込んでくれていれば……。

 そういうわけで「世界の構造にまつわる象徴レベルの話」と、「スパイ陰謀ストーリー」と、「個人的な愛情の話」、わたしに見えた三つのレイヤーが、もう少しなめらかにかみ合っていれば傑作になったのかもしれないなと思った。一緒に見ていた家人はたとえば『ナイロビの蜂』ではそれがもっと高度に成功してる、と言っていた(世評でもル・カレ作品と比べられて一段落ちるという評価が多い気がする)。

 ウィショーさんの演技は素晴らしい。愛情深く勇気があり、繊細で力強く、セクシーで魅力的。たぶんあんまり素晴らしいので演出家たちはいつまでも彼を撮っていたくなるんだと思う。脇役は舞台のキャリアが厚い人たちが固めているようで、こちらもすみずみまで素晴らしい。映像も美しい。いつまでも見ていられるし、見ている間は脚本の凸凹も気にならないでたっぷりと楽しめる。3〜4話が一番好き。この作品が作られて良かったし見られてよかった。とはいえ、いまの彼が主役をつとめ、何もかものパーツが完璧にそろった、傑作の映像作品が作られないものかな、という気持ちもしてしまう。これはファンのわがままなんだろう。最後に見た舞台はそんな傑作に限りなく近いと個人的には感じたけれど、演劇は消えてしまうもので、映像作品なら繰り返し楽しめるから。
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2016年04月08日

『るつぼ(The Crucible)』観劇



 ニューヨークのWalter Kerr Theaterにて3/1〜7/17まで上演中の『るつぼ(The Crucible)』を見てきた。

公式サイトhttp://www.thecrucibleonbroadway.com/
過去のエントリhttp://benwhishaw.seesaa.net/article/433362198.html

 1996年の映画版は見たが、ほかの舞台はなまで見たことがない。日本語の戯曲を読んでから行き、現地で確認用に電子書籍を買った。場面ごとやせりふごとに細かくカットされているのがわかったが、ストーリーの流れと話されている言葉は本のままなので、理解に支障はなかった。

 以下、ねたばれもたくさんあるので、気になる方は読まない方がいいと思う。一番下までスクロールした先の「●その他いろいろ」の項目だけは、席の見え方や劇場まわりとか割引チケットなどのまとめなのでねたばれ無し。ステージドアはほとんど行ってないのでわからない。

●演出のこと
 
 戯曲にない要素として、冒頭と最後に賛美歌らしき歌が入る(聞いたことがあるように思うが、曲目はわからない)(どうやらフィリップ・グラスのオリジナル曲であるもよう)。幕間に短い超常現象的なシーンが追加されている。途中にも、ト書には存在しない、まさに魔法のような激しい現象が引き起こされる。どれもが視覚や聴覚に訴えかける刺激的なもので、びっくりするし、不安を煽られる。客席は何度も息をのみ、ため息をつくことになる。まさに集団催眠。

 美術や衣装は、実際の事件が起きた17世紀のものではなく、現代風になっている。大人の男女はどこにでもありそうな着古したスーツやセーターやコート、若い未婚の娘たちは私立学校の制服(ソックス、タイツ、カーディガンなどでそれぞれ着崩している)。セットは学校の教室で、奥に黒板があり、話の展開に合わせて文字や絵が描き足されていく。左に大きな窓、右に無菌室のようなガラスの出入り口、天井には蛍光灯、床はチェッカーのリノリウム。小道具は最小限。服もセットも灰色や茶色で、全体に寒々しく、人工的で殺風景だ。この教室がそのまま、机や椅子の配置を変えるだけで牧師の寝室、プロクターの家、法廷の控室、監獄などに変わる。

 演出におけるこの2点(超常現象の追加と時代錯誤のデザインコンセプト)をよしとするかどうかで各紙のレビューが割れている。歴史の文脈を消し去った殺風景なデザインと学校のイメージで、観客が自分たちの現実に引き寄せて見ることをうながし、超常現象がほんとうに起きているような演出は、魔法が当然に信じられていた時代の現実に、観客を引き寄せようとしたものなんだろう。「これはいつ、どこでも、誰にでも起こりうることだ」という……。そのように「今、ここ」を強調しようとする姿勢を、わたしは悪くないと感じた。特に、学校に行っている若い人には伝わりやすいんじゃないか。

 複数回みても「サプライズ」的演出に飽きたりすることもなく、途中もだれず、集中して見とおすことができた。ただし、幕間の挿入部分や動物はかなり好きだけど、集団で怪しい動きをするところなどは、踊りとしてはキレがなく、かといって不随意運動にも見えず、中途半端で格好悪い、と思ってしまったかな……。

●「魔女裁判」の描き方

 身寄りのない未成年の娘が性的魅力と嘘とトリックで人を操り、気に入らない相手を端から殺そうとする――などとまとめれば、もともとの戯曲からして不快な話だ。そこに学校と制服を足して、「女が群れると恐ろしい」「少女の性が」みたいなところを妙に強調して見せるようなら、せっかく好きな俳優が出ているのに作品全体として好きになれないかもしれないな、と思っていた。でも実際に見たら、そんなに嫌ではなかった(嫌なひともいるとは思う)。そもそも「作者が最初からこいつは滅ぶべきと意図して作った悪い魔女」のキャラクターは個人的に好きだ。まあシアーシャ・ローナンのアビゲイルは憎々しげで強そうで、とても彼女の目線に肩入れして見られるようなキャラ造型ではないけれど、やはり強い魅力はある。どちらかというとタヴィ・ゲヴィンソン演じるメアリー・ウォレンにはだいぶ同情してしまった。

 若く、力もなく、抑圧されてきた制服の少女たちが嬉々として権力をふるい、最後には寄り集まって一個のモンスターのようになって自分たちを守ろうとする。一塊になってものも言わなくなった彼女たちの姿に奇妙な解放感と安堵を覚えた。危ない(笑)。それはたぶん原作者の意図とは違うだろう。たぶん。自分と同質の仲間以外のものをいじめて搾取してはじき出してやりたいという欲望は根源的で、いつでもどこでも誰でも抱きうるものだ、ならばどうすればいいのだろう。そんな問いは、あの趣向から伝わってきた。

●ベン・ウィショーのプロクター像

 ベン・ウィショーの演じるジョン・プロクターは、戯曲のとおり気が短い。すぐに声を荒げたり、ことあるごとに女の子を押し倒したり、壁に押し付けて首に手をかけたりする。動きは素早い。静かにうなだれていたと思えば、稲光のように一瞬で怒りが爆発して急に机の上のものを払い落としたりする。激情にかられて脱ぐ。メアリーがいうことをきかないと、さっさと棚の上に置いてある鞭を持ち出す。妻のことも怒鳴るし、舞台外では実際に召使を打つこともあったんだろう。でも話の中では脅すだけで、暴力の兆しが出てしまったときはわりとすぐに手を止めて、自責の念をにじませる。

 そして、ウィショーさんのプロクターは、やさしい。妻はもちろん、老人にも、女の子にも、とてつもなくやさしい手つきで触れる。アビゲイルに「二度と手を出すようなことがあれば、自分の手を切って捨てる」とか口では言いながら、そっと下から彼女の両手を取って握りしめたりする。これはもう誤解してくれと言わんばかりの仕草だ……。ただ、愛情深そうでも、どこか自分の殻にこもっていて、相手の感情や意志はあまり汲んでいないのだろうなというふうにも見える。きっとこの人は、出てこないけど牛や馬や植物も同じ手つきで撫でているんじゃないか、と思いながら見ていた。

 短気だが、同時にやさしく繊細でもある。地に根のはえた農夫にも見えるけれど、浮世離れしたところもある。乱暴な口のきき方もするが親しみやユーモアもある。体型はあいかわらずほっそりとしているが、声は力強くよく通る。罪悪感をずっと抱えたまま、強さと弱さのバランスが拮抗し続ける。「伝統的な、力強い、男らしい俳優」が演じたものをきちんと見ていないのではっきりとはいえないけど、柔らかく細やかな表現を得意とする彼が演じる意味はあったと思う。強弱のバランスは日によっても少しずつ違っていた気がする(舞台と客席の距離が違ったせいかもしれない)。それでもひとつの人間像として、筋の通った理解しやすいものになっていると感じた。怒り、焦燥、欲情と自制、憐れみや悲しみ、自罰、愛情と、一瞬ごとに感情が移り変わり、いま何を感じているのか一挙手一投足からひしひし伝わってくる。いつものとおりブリリアントだ。ソフィ・オコネド、シアーシャ、タヴィ、その他の共演者とのケミストリーもそれぞれに違ってある。終わるころにはへとへとになるほど見ごたえがあった。

 最後に見た日、たぶん嵐のシーンで飛んでいた白い羽根が彼の身体にくっついていて、静かに退場するシーンで腰のうしろあたりから落ちた。絶妙のタイミングだった。自分は聖人ではない、というせりふがあったけど、血まみれの鞭の痕を背負って歌いながら出ていく彼はすでにこの世のものではない感じだった。

●その他いろいろ

 席について。1階中央ブロック2列目、2階最前列、1階中央ブロック最前列の右端という順で数日おきに見た。1階2列目は、表情も全体もよく見えるが、傾斜がないので前の人の頭がちょっとかぶることもある(話に入り込めばあまり気にならない)。中央ブロック最前列右端は、クライマックスの場面が目の前で繰り広げられて、息もできないほどの切迫感に飲まれる。ただし、最前列は机が散らばるセットをやや見上げる形になるため、舞台奥にいる人物の顔や体の一部がしばらく隠れることがある。ごく近いのにアビゲイルの表情がわからないのはちょっと難だった。2階最前列は、舞台全体が端までよく見えるが手すりが若干邪魔になる。まあ、プレミアム価格のチケットが一番良い席ということなんだろう。

 これから買うなら、playbillのサイトにある6/10まで有効の割引コードを使ってもいいと思う。
 http://www.playbill.com/discount/playbill-discount-for-the-crucible
 オンライン購入にも使えるし、電話でコードを言うか、劇場のチケット売り場に直接行ってこのページを見せ、適用できる席種が残っていれば割引で買えるはず。

 また、抽選により35ドルで買える当日券も出し始めたみたい。メールで応募し、前日の昼に当落がわかる。席は選べず視界の一部がさえぎられる席の場合が多いとのこと。
 https://jujamcyn.turnkeysurveyor.com/se/4D0A7D4978CA3CA3

 劇場に行くと、開演30分くらい前に正面入り口が開く。ロンドンの劇場より時間の余裕がない気がする。開場前には駐車場に並ばされる。席は毎日ほぼ満員に近くて開場前の行列は長い(すぐ入れるけど)。中のトイレは混むので、余裕をもって前の方に並ぶか、先に他所で済ませてから行くことをおすすめする。幕が下りて上がる4幕構成で、2幕のあとに休憩が入る。2時間45分。
 
 何か思い出したら書き足すかも。
 
●3か月後に思うこと(7/19追記)




 始まりは、非力な若い女性たちが、追い詰められてついた嘘を自分の身体ごと信じてしまったことだった。わたしの話を聞いてほしい、振り向いてほしい、非力な若い女性だというだけの理由で否定しないでほしい、という切実な願いを、「架空の悪魔の力」を借りて叫んだだけだった。物語がひとり歩きし、ふくらんでいく中盤は、みんながそれぞれの方法で、自分の身を守ろうとしただけだった。集団心理を解除する方法は、個人と個人が向き合って、冷静に対話することだったのかもしれない。でも、一対一の個人的な関係であれば存在し得たはずの人間的な感情も、いつのまにか出来上がってしまった「仕組み」に轢きつぶされていく。「女は怖い」だの、「子どもの嘘に騙されるなんて」だの、そんなふうに自分を切り離して、作中の人びとを笑うことはできない。どこにでもありそうな服を着た、どこにでもいそうな人びとが、どこかで見覚えのある教室で、紙コップのコーヒーを飲みながら、仕方がないんだ、わたしの意思じゃないんだ、という顔をして、推し進めていく陰惨な弾圧劇。いつでもどこでも起こりうることだ。「今、ここ」でも起こりつつあることだ。

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